夢の中で、リオウは不意に目覚めた。寝ぼけた眼に、一杯の暗闇が襲い掛かる。あっという間に、視界全てを多い尽くしたそれは、どれだけ世界を食いつぶしても足りないようで、ありとあらゆる場所に視線を向けても、世界は黒から姿を変えることは無い。
リオウは、立ち尽くした。
一体ここはどこなのか。
本来ならば、疑問が出てくるはずである。しかし、リオウは何故か確固たる確信を持って、ここは深層心理か、夢の中か・・・ともかく、自分の中にある世界だと、はっきりと認識することが出来た。
そんな確信を得る理由は、いくつかあるが、とりわけ、ここは非常に懐かしく、暖かく、安堵が腹の底からこみ上げてくるような場所だというのが大きい。己がまるで闇に溶け込んでいるような、この暗闇が自分のような・・・まるで、大きな己の中にちっぽけな己が居るような、不思議な感覚が這い上がってくる。立ち尽くしたまま、快さそうに瞳を閉じていたリオウは、不意に鼓膜を振るわせた音に、小さな黒い瞳を闇に凝らす。
それは、泣き声の様であった。
否、確かに、獣の鳴き声であった。
遠くから、断続的に、猛々しく、暗闇の中から、冷たく響いてくる。深い奈落の底から、びゅうびゅうと吹き上がってくる風の勢いを思い出させる、恐ろしい咆哮である。
身も竦むような、鳴き声というよりも、唸りを上げる声を聴いて、リオウは、ふらふらとその方向に歩き出す。彼の中に危険だとか、恐怖だとかは、全く無かった。獣の声はひどく懐かしく、その声に呼ばれているような気がして、引寄せられる感情の方がはるかに大きかったのだ。
獣の声は、一歩、一歩、歩く度に近づいてゆく。そのうち、身体が、鳴き声の衝撃で震えるようになったが、それでもリオウは、歩みを止めなかった。
凶暴で、粗野で、腹の底から響くような、まさに恐怖を具現化したような、そんな咆哮である。
しかし、ひどく悲しい咆哮である。
リオウには少なくとも、獣の声が、ひどく悲しそうに聴こえたのである。獣が咆哮する度に、リオウはまるで己の身を削られるような胸の痛みに襲われた。
自然と歩みが速くなり、リオウは息が切れるのもかまわずに、とうとう走り出した。何がそんなに自分を突き動かすのか全く解らないが、とにかく急がなければいけない、という想いが、彼を先走らせた。
どれだけ走ったのか、これだけの暗闇では途方もつかないが、リオウはとうとう獣を見つけることができた。
それは、それは、不思議な獣であった。
見上げないと顔すら見えないような、大きな体躯、それぞれに自由気侭な方向へ、先ほどからずっと聴こえている咆哮を叫び続ける、三つの頭。例えるなら、獅子の姿によく似ている。
光も無いのに、気高く黄金に光る毛皮は、胸のあたりに目をむけると真っ赤に血塗れているのがわかった。心臓の丁度真上である。怪我をしているのだ、しかも、とても酷いものである。
リオウは、もう一度立ち尽くした。心臓が冷えるように苦しく、ひどく痛かった。思わず、手を当てたその場所は、苦しげな、不規則な鼓動を刻んでいる。
獣は、とうとう辛くなってきたのか、鳴き声が断続的になった。そのうち、息切れの音も聞こえ始める。獣が苦しそうに瞳を細めて低く喉の奥だけで唸った。
リオウは、無意識に手を伸ばしていた。ふわり、と暖かい獣の肌に、おそるおそる、触れる。噛付かれるか、激しく攻撃されるか、抵抗を覚悟していたリオウであったが、意外にも獣はおとなしく、むしろ安堵したように咆哮を収めた。ふさりとした毛越しに暖かい血の通う血脈の動きがリオウの手のひらを伝わる。
それを感じて、リオウも何故かひどく安堵した。不思議なことである。獣は喉を鳴らして、今度は、心地よさそうに瞳を細める。リオウは不意に泣き出したくなった。
彼は、その瞬間全てを悟ったのである。
「―――待たせて、すまなかった」
獣はずっと待っていたのだ、ほかならぬリオウを、待っていたのである。死を目前にしながら、彼の世界の中で、ずっと呼び続けていたのだ。己の主を、否、昔の主を。
獣は、穏やかな瞳を、笑うように細めた。
ほろり、とリオウの頬を雫が伝う。それはとどまることを知らず、次から次へと、ぼろぼろとこぼれ続けた。





己に授けられた最強の呪文は、一族の守り神であった。
それが、今は己に頭を垂れている。
そして別れを告げるためにずっと待っていたのだ。
そう、獣はもう直ぐ己から離れるだろう。そして再び、一族の元へ還る。





別れを、告げるときが、きた。





そう、聞こえた気がして、リオウは嗚咽を吐き出した。とうとう、己は全てを手放さなければならないのだと思い知らされ、体の中を冷たい風が通り抜けた。
震える指先を獣から離す。獣はゆっくりと立ち上がると、堂々たる姿で立ち上がる。先ほどまで、あれほど弱弱しかった姿が嘘のようで、胸を汚している血も今は不浄を潜めていた。
神々しい金色の獣は、その瞬間、主であったリオウを全て忘れてしまったかのように、冷たい横目でリオウを一瞥すると、背を向けた。
リオウは、獣は己の呪文ではなく、ひとつの神に戻ったのだと悟り、虚無で唇が戦慄くのを感じた。が、もう己に引き止める術はひとつも残されておらず、引き止める価値すら持たされていない。
獣はゆっくりとした足取りで暗闇へと姿をくらましてゆく。己から離れてしまった獣をリオウは見つめることしか出来ず、もう一度だけ涙を零した。





獣の姿はかき消える。





そして全く空っぽになってしまった哀れな魔物は目を伏せた。










リオウの呪文は一族の中ですごく守り神的な、偉いものだといいなぁという妄想。
あと最強呪文って、魔物にとっても特別だし、なにかしら意思みたいなものがあるといいと思います。というのはバオウが意思を持っているところから想像。