「無様だよなぁ、リオウ」
 バニキスは足元でたなびくダンデライオンを見下ろして、まるで独り言のように呟く。
 背後にいるリオウの名を呼んだにも関わらず、その声音には呼びかけの意思は全く無い。
 リオウもそれを了解しているのだろう。返事を返すこともなく、ただバニキスに視線を移した。
「アスファルトの上だってこいつら馬鹿みたいに咲くんだぜ」
 春の風に煽られて、バニキスの髪は四方に舞い、彼の表情はリオウからは見えない。
 それでも、彼の口元がかすかに吊り上げられているのを見て、彼の心の平常を理解し、それまで彼の心情を読めずにいたリオウは安堵した。
 バニキスはかがんで、大地の地肌を覆い隠すほど一面に咲き誇るダンデライオンをひとつ摘むと、黄金色に輝くその花弁に唇を寄せた。
 透き通る青空と、降り注ぐ陽光があいまって、それは神々しい景色とリオウに思わせる。
 しばし(不覚にも)その光景に目を捕らわれてしまったリオウは、バニキスの手がいきなり視界を遮るまで、呼びかけられていることに気付かなかった。
 「なぁ、リオウってば」
 「・・・あ、ああ。なんだ」
 至近距離でひらひらと手を振るバニキスに驚き、やっとのことでリオウは返事を紡ぐ。
 バニキスの気配にすら気付けないほど先ほどの光景ひとつに目を奪われていた自分に、リオウは今更ながら羞恥と屈辱がこみ上げた。
 どうかしている。
 こんな非力な人格破綻者に、見惚れる、などと。
 (断じて、無い・・・!)
 一人で百面相をするリオウを面白そうに眺めながら、バニキスは軽口を叩いた。
 「何だよ、俺にでも見惚れてたのかよ?」
 「・・・こ・・・のうつけが!そんな訳ないだろうが!」
 「知ってるよ。ムキになってどうしたんだよ、リオウ様」
 びくりと肩を震わせて過剰な反応を示したリオウにバニキスは肩を竦めて訝しげな視線を送る。お前、今日は変だぞ、大丈夫か、などとまで言われてしまい、リオウはぐぅ、と意味の解らない声をあげて黙り込んだ。本音を不意につかれて妙に焦ってしまい、が、そんなことをバニキスに暴露できるはずもなく、黙るしかなかったというのがリオウの胸中の思いだったのだが、そんなことを知る由がないバニキスは、理由がわからないものであれ、リオウをやり込めた楽しみに瞳が煌く。
 「なぁ、無様だよな」
 ひらり、と身を翻して、彼は突如に呟いた。
 何が、とは聞くまでも無い。
 「こいつら、踏みつけられても、どれほど蹂躙されようとも、しぶとく咲くんだぜ」
 ダン!と大きな音を鳴らして、振り下ろした右足。その下で、百獣の王の名を与えられた花弁は醜く潰れた。バニキスは、鬱蒼とした瞳で、微笑を浮かべた。
 「どんな力の差を目にしても、こうやって押しつぶされてしまっても、それでも生きたいなんて―――無様、だよなぁ」
 ―――ぞくり、とリオウの背に形容しがたい悪寒が走る。
 バニキスは、よくこういう表情を浮かべる。
 美しいもの、気高いもの、位の高いもの、いわゆる、この世界で尊いとされるものたち。
 それらを見下し、踏みつけ、それが出来た瞬間、彼はひどく暗く冷たい色をたたえた瞳でそれらを侮蔑する。そして誰もが眉をひそめたくなるような顔で、笑う。
 リオウは昔から、そのバニキスの表情がたまらなく嫌いだった。
 何故なら、バニキスは、己が愛していると豪語するリオウにさえ(リオウにはたまらなく迷惑極まりないのだが)、時折そんな瞳を向けるからだった。
 バニキスがまだ本を持っていた、リオウが王座を目指し戦っていた、幼いあの日、自分に向けられた瞳にどれほど屈辱的な感情を覚えたか。リオウはいまだにまざまざと思い出せる。
 例えば、王の玉座への夢を語るとき。
 例えば、己が一番尊いと信じていた一族の話を語るとき。
 例えば、唯一の愛を注いでいた、父を、母を語るとき。
 バニキスがひどく侮蔑した瞳でリオウを見るのは、そんな時と決まっていた。
 あの時リオウは、そんな瞳を向けられることにわけもわからずバニキスに腹を立て、いちいち彼に突っかかったものだったが、今ならば、リオウは何故そんな風に見られていたのか、解らないことも無い。
 尊いものが嫌いなバニキスは、きっとリオウの世界で尊いとされる地位についていたリオウの一族が、嫌いだったのだろう。だから、それを好きだと愛おしいと恥ずかしげもなく言うリオウがひどく滑稽に見えていたのだろう。だからああやって馬鹿にしていたのだろう。
 そうリオウは勝手に解釈している。(それは当たらずも遠からず、と言ったところなのだが、一族をバニキスが嫌う観点についてはかなりの誤解が生じている。)
 「・・・で?それで満足か?」
 ぐしゃぐしゃと潰した花弁を爪先で抉るバニキスの様子に若干顔を顰めながら、リオウは呆れた声音で問いかけた。まるで幼子のようだ。心の中でそんなことを思いながら。
 バニキスは、ん、とどっちつかずの声を上げ、小首を気だるそうにかしげた。
 「・・・でもなぁー・・・リオウ」
 どうやら彼はリオウの言葉が耳に入っていないようだ。会話が全く繋がっていない。
 リオウはこの返事から彼との意思疎通を諦めた。仕方が無いので聞き役に徹することにする。
 バニキスは握っていたダンデライオンを目の前に掲げた。
 太陽より美しい黄金色を宿した花弁は、きらきらと光を受けて、暖かい空気をかもし出している。
 バニキスは、舌打ちひとつをつけて、苦々しい表情で口を開く。
 「俺はこんなものが大嫌いだ。憎んでいるぐらいだ。こんなものは消えてしまえばいいと思うし、こんなものが溢れた世界だって、消えちまえと願ってるぐらいだ。だから・・・だけど」
 リオウはこのとき、不意にバニキスの顔を正面から見たくなった。
 彼の語尾がかすかに震え始めたことに気付いたリオウは、彼の顔をちゃんと見て、己の瞳を合わせてやるべきなのではないかと思ったのだ。
 それでも、それをしてやった方がいいのではないかと思っても、バニキスが到底それを望まないだろうことはわかっていたので、黙って彼の後姿をじっと見つめるに留めた。
 「・・・・・・・・・・・・」
 長い沈黙が降りる。バニキスは、震える身体をごまかすように、右手で左腕を押さえつけ、長い思い溜息をついたあと、覚悟したように吐き出した。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それでも、今は、美しい、なんて思うんだ」
 「綺麗だと、それに安堵を覚える俺がいるんだ。信じられるか?俺は嫌いなんだよ。こんなもの、こんな美しいものが、大嫌いなんだ。馬鹿にしてるんだ、心底から。
 それなのに、その一方で俺はいつしか美しいものを肯定しつつあるんだぜ、っ、馬鹿、みたいだ」
 ははっ、と乾いた笑いが空々しく響く。震える声を聞いて、リオウは、バニキスが泣いているのか泣いていないのか、それが気になるところだった。
 思えば、彼の怯える表情も、絶望に塗れた瞳も見たことがあるのに、彼の涙はそういえば見たことがないのだった。だからリオウはバニキスの泣く姿が想像できなかった。
 けれども、全く確証はないのだけれど、今、たった今、バニキスは泣いているのだろう、と後姿しか見えないのに、リオウは確信した。
 それが瞳から涙となって零れ落ちるものでなくとも、きっと、彼は泣いているのだ。
 リオウは、バニキスの涙を(たとえ流れていなくても)ぬぐってやろうかと考えた。
 けれど、どう考えてもその行動は二人の関係に滑稽な程似合わなかった。それにそうすることがバニキスに対する正しい選択だとはリオウは到底思わなかった。そんな甘ったるい優しさなど、何の意味も無いし、慰めにすらならない。
 リオウは、一歩を踏み出した。一歩、もう一歩、そうしてバニキスのすぐ背後まで近づく。
 見下ろすと彼の旋毛がちょうど見えた。そうして、長い年月がいつの間にかとっくにバニキスの背丈を追い越していたことに、リオウは改めて気付いた。
 バニキスはリオウが近づいたことに、きっと気付いていない。
 ただ、うわ言のように小さく呟いている。
 「俺は、どうなっちまうんだろうな」
 (・・・お前は、恐れているんだな)
 リオウは、手を伸ばした。彼の細く美しい髪が、指先に触れる―――。
 (変わることを、恐れているんだろう?
 憎悪と侮蔑、嫌悪、悪意。
 そんなものに溢れて捻じ曲がった心を失くした時、何が残っているのか、不安なのだろう?
 恐ろしくて、たまらないのだろう?)
 それは少し前のリオウの姿だった。
 自分から汚いものを取ってしまえば何も残るものは無いと思っていた己の姿に酷似していた。
 リオウは、冷静にバニキスを見つめている。そんな風に、今は、バニキスの姿を違う場所から見つめることが出来た。少し前から、振り向いて、手を伸ばすように。
 それは、リオウが変わったという証だった。
 そしてバニキスがまだ変わっていないという証でもあった。
 バニキスは、リオウという生き物が変わりはじめても、頑なにそれを拒絶していた。
 リオウの穏やかな笑顔を見て、幸せそうに笑おうとも、愛おしそうな瞳でリオウのことを許容しようと、自分がそうなるのだけは決して許そうとしなかった。
 そして、リオウはバニキスを今の自分と同じところまで引き上げてやることはしなかった。
 必要の無いことだと思っていたからだ。
 バニキスは心底から変わることを拒絶していた風に見えたから、それをわざわざ直す必要など、無い―――己等はそんな関係ではないのだから。






嗚呼、だけど。






 (………俺は、ほんとうは、望んでいるのかもしれない)
 バニキスの酷薄なほど薄い青を宿した瞳が、おそれ慄くような色を宿して、髪先に触れてきたリオウを見上げた。
 リオウは、そんなバニキスがひどく弱く、脆く、何よりも人間らしい生き物に思えて、ぐう、と喉が締め付けられるような心地になった。






 (お前が、ここに、俺と同じところに来ることを。
  お前が、俺と同じでこれからもいられることを)






 リオウの掌に、熱が宿る。
 穏やかな、暖かな、まるで愛情のような。
 それは、確かに空気を伝って、バニキスの元へと届いたのだろう、バニキスの瞳が大きく見開かれて、微かに震えた。
 「…………どうして…」
 茫然とつぶやく声に、リオウは確かに返す言葉を持っていた。それを音にする心も。
 「……それで、いいんだ」
 空を美しく思おうとも、花に心踊ろうとも、何かが愛しくなろうとも、それでいい。
 俺もお前も、それを望むときがきたのだ、ならば、受け入れよう。
 そう思うよ、俺は。ならば、望んでみよう、とも。
 そして、正直になろうとも。そう、俺は、お前にも望んでほしいらしい。
 バニキス。






 しあわせを、共に望もう。






 瞬間、バニキスは冷たく強張っていた表情を、くしゃりと―――まるで嗚咽する寸前のように―――ゆがめて、直ぐに、笑った。
 嗤うでもなく、こぼれるように、笑った。






 嗚呼―――ようやく始まったのだ。
 リオウは深く嘆息した。まだ、己の腕はバニキスを抱きしめるには至らない。
 バニキスも、本当に望むかは、陽だまりにやってくるかはわからない。
 それでも、戒めは放たれ、頑なな心は、少しずつ融解し始めた。






 ダンデライオンはいよいよ咲き誇り、あたり一面を黄金に染めている。
 かつて王者の名を与えられた花だと教えられたことを思い出し、リオウは小さな王者たちからの祝福に後押されて、手始めに、大きな黄金の掌を、バニキスに向けて差し出すのだった。









再会と幸福に向けて歩き出す二人。をテーマに。
ガッシュが完結して思うことは、本当に皆は幸せに向かって行ってほしいなぁということと、皆が幸せになってほしいということ。
幸せの定義なんてものは難しいけれども、とにかく皆が皆を大切に愛しく思う幸せを持てるようになってほしいなぁ。
だからバニキスとリオウにも夢を見てしまいます。
お互いが、お互いを想って、幸せを望んで歩いていくような。
しかし妄想激しいライムライトでした。