「その時計は、壊れているんだよ」







背後のカウンターの向こうでやたらと座り心地のよさそうな椅子に腰掛けて、客の前にも関わらずのんびりと朝刊に目を通していた宿屋の主人―――もう随分と歳を重ねているようで、やたらと分厚い老眼鏡をかけている―――はそう言って目の前の客に目を向けた。
昨今本場の中国でも珍しい漆黒の中華服に身を包んだ姿が妙に似合う、見ただけで戦いに身を投じている人間だと解る体つきの良い男。
どうやら宿屋の顔なじみらしく、主人は時間を見るだけにしてはやけに長い時間、カウンターの前の壁を占拠する古時計を見上げていたその男を気軽に呼ぶ。
「どうした、玄宗。余程その時計が気になるらしいな」
からかう様に言ってやると、主人に背を向けていた男―――玄宗は、途端に振り向いて不機嫌そうにうるせえよ、と一言呟いた。
「この時計、壊れてんなら何でどかさねえんだよ」
ややこしいだろうが、と不満めいた口調で呟くと、玄宗はようやく古時計から視線を外し、少し離れた位置にあった手ごろなソファに腰掛ける。見ただけで年季が入ったそれは玄宗の重みにぎしり、と小さな悲鳴を零した。
玄宗は懐から煙草を取り出して火をつけようとジッポも取り出したが、それは主人に止められる。
「玄宗。カウンターは禁煙だ。気をつけてくれよ」
物腰は柔らかいが、抵抗の余地がない。主人のきっぱりとした声音に玄宗は舌打ちで返事をすると、灰皿にまだ長い煙草を押し付けた。
そうするとすることが無くなってしまったらしく暇なのか、玄宗の視線はまた時を刻まぬ時計に向けられる。
「―――それにしても。随分古い時計じゃねえか。年代物かよ」
「いいや。確かに古いといえば古いが、アンティークなんて立派な身分の物でもないさ。せいぜい十、二十年ぐらいだろうよ」
その答えを聞いたとしても、玄宗には家具の類が果たしていつから“年代物”と呼ばれるようになるのかさっぱり解らなかったので「ふうん」と興味なさ気な言葉を返す。
主人はそんな態度を気にする風も無く、独り言のように呟いた。
「もう動かなくなって七、八……いや、もう十年はたつか」
主人の言葉に、玄宗は全く興味を無くして退屈そうに細められていた瞳を見開いて、眉を吊り上げる。
「十年?そんなに長ぇ間、ずっと置いたままなのかよ」
いい加減、どかしてしまえばいいのに。
驚きと呆れがとことん入り混じった口調の玄宗の台詞に、主人は小さな愛嬌を感じさせる瞳を細めて、枠の分厚い老眼鏡を外す。そうすると益々感じの良い老人になった。
古時計を眺める瞳には懐かしさと暖かさがこもっていて、玄宗は思わず言葉をとめて、つられる様にもう一度動かぬ古時計に目をやった。
静かに、自らの仕事も忘れて佇む姿は、何も語らない。
ただ立ち尽くして存在だけを密やかに主張する役立たずを、何故いつまでも傍に置いておくのか。
玄宗には甚だ理解できない。そういった感情を込めて横に目を向ければ、主人は慈しみ、愛おしそうな暖かい色を瞳の奥一杯に広げている。
玄宗は呆れて肩をすくめると、ソファから立ち上がった。
「わっかんねぇな。役立たずの時計なら、捨てちまえよ」
「―――役に立つ、立たないは問題では無い」
「……あぁ?」
玄宗の訝しげな言葉に構わずに主人は立ち上がると古時計に近寄る。そして幾つもの皺が深く刻まれた短い指でそれの側面をなで上げた。
やはり、とても愛おしそうに、大切そうに。
「解らないか?玄宗」
突然その視線のまま返事を求められて、玄宗は一瞬言葉に詰まる。けれどもすぐに機嫌の悪そうな声音で、
「何がだよ」
と、短く返す。老人はまるでふて腐れた子供の様な行動に苦笑した。
「まぁ、いい。解らないなら解らないでいいさ。―――だが、これは私にとってとても大切で、愛おしい時計なんだよ、玄宗」
そして老人はもう一度、皺くちゃの顔を歪めて幸せそうに微笑った。とてもとても穏やかな色を浮かべて。
玄宗は、全く気にくわなさそうな表情で沈黙する。







解らねぇ。(いや、じじぃの言っていることが解らない、って意味とかじゃなく)
必要な事を成せなくなったものに未練がましく想いを寄せることに何の意味があるってんだよ。
思い出。記憶。
そんな頼りねぇもんが元になった『特別』や『必要』なんて。
――――解りたくもねぇ。








「――――不機嫌そうだな。気に喰わんか?」
振り返った先の玄宗の表情があまりにも不機嫌そうで凶悪的だったので、老人は面白そうに笑う。まるで子供のように素直で、粗野で、いつまでも単純なこの男のそんな所をこの老人は好いていた。
口の端を吊り上げながら面白そうに己を眺める老人に、玄宗は鋭い双眸を細めて苛立ちをにじませる。
うなるような声が響いた。
「気に喰わねぇ」







時を止めた時計。動くことの無くなったもの。
―――まるで、関係が終わりを告げた、俺とあの魔物のように?
記憶の中でしか動けなくなって、決して同じ世界で時を刻むことが無くなっちまった―――ツァオロンみてぇに。
アァ、全く気に喰わない。
そして、同様に気に喰わないことがもうひとつ。
きっかけからこうやって記憶を無意識にたどって、アイツが傍に居た高揚感や、愉悦を思い出そうとするこの感情。
正にソレこそ―――解りたくも無かった記憶の中の『特別』みたいだ。







「気に喰わねぇよ」
低い、凄みの聞いた、けれどどこか苦々しく吐き捨てた言葉は残響も残さず場から消えた。
玄宗には到底似合わない重さを含んだ表情は思わず主人の呆れを呼んだ。
「らしくないな。―――何か大切なものでも失くしたみたいじゃないか」








失くした―――大切なものを?







玄宗は考えるよりも早く、乱暴にくそったれ、と一言吐き出す。
「胸糞悪ぃ」
己の中に渦巻いてきた良くわからない感情を無理矢理苛立ちに変換させて、玄宗は老人を睨み付ける。
その視線を受けて、老人はやれやれ、と肩をすくめる。まさか玄宗に限ってあるまい、と思った故の台詞だったがどうやら彼にとっては自覚なしの地雷だったらしい。
まるで獣のような色を浮かべる瞳を仕様の無い子供を見る目つきで覗く。
「玄宗」
「ァあ?」
凄みを利かせて唸る姿はまるで獣だな。そう思って返した言葉は老人が思うよりも呆れを含んでいた。
「お前、今どうしようもない顔だよ」
玄宗は思わず虚を付かれてしまったのか、驚いた顔で沈黙し―――思考ごと遮断するかのごとく、彼らしい全てを薙ぎ払ってしまうような声を押し出した。







「五月蝿ぇよ」







―――大切なものであろうが、そうでなかろうが。
もう、右手の本の重みも、隣にあった存在感も、無いのだ。
もうそれは己の中で動かないただの記憶であり、ひとつの過ぎ去った事象でしかない。
ならばそれは、もうこの世界にも、精神にも、何も影響を与えず、何も残さない。







「俺は、何も失っちゃいねぇ」







―――そう、何も。







「何も、最初から持ち合わせちゃいねぇよ」







それでも心に落ちたひとつの雫を、男は見てみぬ振りして前だけ仰いだ。













玄宗とどっかのおじさんのお話。
個人的に今までの中で一番自分の中の玄宗像と向き合ったよな気がするけれども、大きく世間の認識から外れていそうな自分の玄宗。
とりあえず玄宗はツァオロンが魔界に帰ったら直ぐにツァオロンのこと忘れちゃいそうだけど、何か心に引っかかってるといいなぁってお話です。
なるべくコンビというか玄宗+ツァオロンみたいなものを意識的に目指したかったつもりです。あと玄宗を精一杯馬鹿に書いたつもりです(薄笑)
馬鹿な男が好きです。というか馬鹿な玄宗が(笑)