部屋の真ん中に敷かれた布団の中から、関口はそっと顔を出した。




 げほ、と音の弱い空堰を吐き出しながら、動かない上半身の代わりに手だけで老眼鏡を探し出し、愚鈍な動作でそれをかける。
 薄ぼんやりとした視界が輪郭を取り戻す光景に、関口はああ、とようやく少しだけ安堵の吐息をついた。
 薄暗い陰気な、まさに部屋の主人をそのまま模したかのような室内である。布団と箪笥と机、そして乱雑に置かれた本。そんなものしか見当たらない。
 (しかも、箪笥の中には、数えるほどの衣服、それほどしか入っていないのだ。)
 狭い室内とはいえ、家具もほとんど見当たらないそこは隙間に溢れていて、物寂しい。にもかかわらず、閉塞感があたりに充満している。
 息苦しいほど室内をみっしりと圧迫し、その空気は、主人を、はたまたこの部屋に訪れる客人(関口の自室まで侵入する客人など、ほとんど居ないのだが)を侵してしまいそうなほど、だ。
 室内は、死臭に侵されている。
 関口は、頭だけで室内をぼんやりと見渡した。
 老いて皺の刻まれた顔に浮かぶ、若い頃からの鬱屈とした色は相変わらずである。
 その瞳は弱弱しく濁り、頬はだらしなく弛緩している。刻まれた皺と歳も手伝って、益々彼を胡乱気に見せている。
 しかし、彼の姿には、年月と共に重ねてきたものも、確かに宿っていた。
 鬱屈と生き、彼岸とこちらの間で立ち尽くしていた頃から、確かに変わったものもあったのだ。




 「起きたかね、関口君」




 上から降ってきた声に、関口が胡乱とした視線を向ければ、相変わらずの古本屋は鬼も怯んで逃げ出しそうなほど、不機嫌な表情を浮かべて、本を開いている。
 どうやら、関口が起きる前から訪れて、ずっと関口の傍に座っていたらしかった。
 しかし彼は、死に際の人間の横ですら、本は手放せないらしい。
 薄情などとは思わず、京極堂らしい、と関口は苦笑交じりに思った。しかし、ついいつもの憎まれ口が零れ落ちるのは、仕方ない。
 「こんな時ぐらい、君は本を手放したりしないのかい」
 「何を言っている。僕は朝から晩になった今までずっと用事が入って君の面倒を見れなくなった雪絵さんの代わりに頼まれて、仕方なくつきっきりで看病してやっているんだ。感謝こそすれ、皮肉を言われる謂われは無いよ。第一、寝ていて話し相手も出来ない――まぁ話していても充実した会話ともいえないがね――君の顔をずっと見ていろとでも言うのかい?榎さんみたいな美術品みたいな顔ならまあとにかく、関口君の顔などずっと見ていたらこちらまで鬱病になってしまうよ。君は責任を取ってくれるのかい」
 息継ぎの場所すらわからない弾丸のような言葉で返されて、関口はいつもの如くぐうの音も出せなくなる。しかし、口で勝てないことがとっくに解っているものの、変に負けず嫌いの己の性質が災いしてか、恨みがましい視線と共に反撃を試みた。
「全く、君はこんなときも僕を苛めてばかりだ。ちょっとは優しくしないかい」
「優しいよ。病人が独りきりだと寂しいだろうと思って、こうやって君をつきっきりで看病してあげているじゃないか」
「雪絵に頼まれて仕方なく、だろう。しかも京極、看病とは言うが、君がしたことといえば、僕の横で本を読んでいるだけじゃないのかい」
 してやったり、と言う風に、関口が揚げ足をとって得意げに笑う。
 対する京極堂は眉を吊り上げた。益々怒っているようにも見えるが、付き合いの長い関口には、彼が珍しく困っているのを悟り、口をつぐんだ。
 「そんなことを言ったって僕は医者でもないからね。余命一ヶ月と半月前に宣告された君の病に対してどうする術も持っていないのだよ。とりあえずは雪絵さんに頼まれたから側に居るが、僕が出来ることなど――残念ながら何も無いのだから」
 そういうと、京極堂は音もなく本を閉じる。ようやく合った視線から、彼の悲哀を関口は確かに見て取った。
 関口はいつものように軽口を叩いた自分をかすかに反省する。彼は本当に具合が芳しくない関口の状態を案じてはいるのだ。
 「・・・気にするなよ、京極堂。僕は、君がこうやってわざわざ僕の家まで出向いて傍に居てくれるだけで十分驚いているし、その、感謝しているんだから」
 その言葉に京極堂は、関口を見下ろす角度になっていた頭を下げる。
 暗闇のような漆黒に艶が乗っていた髪は、白髪が混じり、確実に彼にも老いが訪れている。
 関口は、でもやはり京極堂はいつだって漆黒を感じさせる―――そう、ぼんやりと思った。




 関口の妻の雪絵の細やかな気配りだろう、夏を感じさせる風鈴が、窓の外だと思われる場所から、ちりりん、と小さな音を運んできた。
 いつもならきっと、二人が対峙している場所は関口の鬱蒼とした部屋ではなくて、京極堂の奥で、関口はこんな風に寝込んでいなくて、机越しに京極堂と下らない談義を交わしていて、発汗体質の関口は必死にハンカチで汗をぬぐっていただろう。
そして季節など関係なくぶら下げられている風鈴の音を聞くのだ。
 うだるような暑さの中で、しかし今の関口の肌には汗ひとつ見えない。
 顔を下げて、真正面から己をじぃと見つめる京極堂に、関口は微かに口元を吊り上げて、慣れないように微笑んだ。実際、彼は笑うというその行為にひどく不慣れだった。
「・・・京極堂。なんだか、やはり、僕は・・・もうすぐ彼岸に行くらしい。若い頃から何度も、何度もいきかけた場所だけど・・・本当に確信を持っていくのは、初めてだな」
 何度も何度も京極堂に掬い上げられて、叱咤され、今まで生きてきた。病気に侵されるまで、この生は京極堂と、雪絵や、色々な人に留まらされてきた。




 死なすことを許してくれなかった友人だった。
 生きることを許してくれた友人だった。




 京極堂が、ゆっくりと瞳を伏せて問う。




 「まだ、あちらへ行くことは魅力的かい?――関口君」




 関口は沈黙する。
 ほう、と穏やかな息をついて、一度天井を見上げると、もう一度、ゆっくりと京極堂へ視線を向けた。
 「・・・そうだな。もう、僕はあちらへ行くべきときが来たと、自然な流れだと思っているけれど―――」




 ちりりん。






 「もう少し、ここにいるのも・・・悪くなかったかもしれないな、京極堂」






 京極堂は、初めて関口が見る穏やかな笑みで、そうか、と小さく呟いた。
 とろんとまどろんできた関口の意識に、静かな声が流れ込む。
 「恐れずにいけばいいさ、関口君。どうせ皆、いずれ同じところへやってくる。
  少し先に行って待っていてくれ。今の君なら、一人でも待てるだろう?」
 眠りへと沈んでいく意識の中で、関口は声になるかならないかの小さな声で呟いた。




 「ああ・・・待っているよ・・・」






 最後にもう一度だけ、風鈴がちりりんと鳴いた。














こち亀の記念小説に先生が寄稿されていた話を某動画で読んで、関口が京極堂より先に死んだ事実にカッ!となって書きました。
あの語り口からして、関口は割りと穏やかに死んだんじゃないかなぁ。
というか、そうであってほしい。
最後まで河岸を乞うのではなく、現実に微かな居場所というものを自分で感じて、現実を悪くないと思いながら逝って欲しいです。