崎坂が厠から帰ってくると、山下が丁度出勤したところだった。
「山下さん、お早うございます」
壁に掛けてある時計を見ると、山下にしては遅い出勤時間だ。いつもの彼より三十分は遅いだろうか。やや神経質と言えるほど几帳面な山下には珍しいことだ、と思い崎坂は彼に近寄り軽口を叩いた。
「珍しく遅いじゃないですか、昨日も寄席に?」
山下の落語趣味をついての言葉だった。山下は落語や講談が好きらしいのだが、いかんせん職業柄ちっとも寄席に行っている暇が無い、嗚呼全く残念だ、と前に聞いたことがあるので、今の「昨日も」という台詞は崎坂の軽口だ。
何を言っているんだ、そんなもの行っている暇は無いよ。
という類の返答を予想していたのだが、山下から返ってきたのは、ああ、とかうん、だともとれない何とも曖昧な返事だった。彼にしては煮え切らない返事と、その声の虚ろさに崎坂は軽く目を見開く。
そういえば、先ほど崎坂に返された、ああお早う、という挨拶も酷く覇気の無い声だったような気がする。何があったんだか。
「どうしたんですか?ちっともらしくありませんぜ」
そう崎坂が問えば、返ってくる深い、あまりにも深い溜息。
嗚呼、何か厄介そうな話だな、と崎坂は問いかけてしまったことに思わず眉をしかめたが、話を振ったのは自分なのでまさか逃げるわけにもいかず。
「―――昨日のことなんだが、聞いてくれるか?崎坂君」
と、酷く疲れた瞳とくっきり隈が残る表情で問いかけてくる山下の前に、崎坂は仕方ない、と諦め、どっかりと座った。
「お聞きしましょう」
まぁ、君の言うとおり、昨日は珍しく非番だったからね、寄席に行ったんだよ。
え?ああ、いや、落語は大層面白かった。昨日は怪談噺が多くてね、まあ私は人情噺が一番好きなのだが、次に好きなのは怪談だからね、満足だったのだよ。
まあ、それで最近ずっと寄席に行けていなかった分、満足もしたし、うっかり気分が良くなったりしてだね、帰りはそりゃあ晴れ晴れとした気分だったのだ。
何ともいい気分で帰りの路を歩いていたら―――ここからが聞いて欲しい話になる訳なのだが―――大きな柳の木の下にさしかかったんだよ。
そのときは何も疑問に思わなかったが、思い返してみるとさてはて、私は、柳が生えているような道など、通ったことも無いし、そもそも知ってすらいないのだ。しかもだね、その柳が生えている道というのは、まるで古臭くて、そう、片側にはまるで武家屋敷のように頑丈な塀が延々と続いていて、反対側には濠があって透き通った水がさらさらと流れているような・・・そう、とても時代かかった風景だと言えばわかるだろう。
改めて話してみると、自分が何も疑問に思わず進んでいたことが不思議でならないが、とにかくそのときは何も気にならなかったのだから、仕方が無い。
するとね、崎坂君、居たんだよ。
女の人が、柳の木の下、濠の縁に。
その女性は、まぁ、おかしくは無いのだが、今時には珍しく着物を着ていてだね、長い黒髪をこう、横からは顔が見えないように垂らしていて、しゃがみこみながら泣いている訳だよ。本来ならばこういう時はそっとしておくべきなんだろうね。
しかし、私も職業柄、こんな夜遅くに女性が一人で居るのを放っては置けないからね、泣いているご婦人に気遣いながらも話しかけてみたわけだ。
『もしもし、突然すいません。こんなところでこんな時間に女性が一人で居られては非常に危ないでしょう』
そう声をかけたが、女性に反応は無くてね。相変わらず泣いている。
困ったが、ここで置いていくわけにもいかないでしょう。今は悪漢なんかが平気で夜道に女性を襲うような事件もあるぐらいだからね。仕方ない、もう一度、
『お嬢さん、私は警察の者です。怪しい者ではありません。
もし、何か困っているのであったら、ご相談に伺いますよ』
と、身分を明かしてみたわけだ。そうしたら、女の人は泣くのを止めて、
『まぁ、警察の方・・・』
と、呟きながらふらりと立ち上がってくれたのだ。
そして立ち上がって、こちらを振り向いたのだが―――嗚呼、私自身も信じられないのだが、崎坂君、どうか本当の話だと思って信じてくれないか―――。
―――その女性には、
その女性には、顔が無かったんだ!
解っている、解っているよ。だからその顔はやめてくれないか。
私だって信じられないし、まだ半分も信じていないんだから。
とにかく、私は余りにも吃驚してしまったものだから、その女性を放り出して、走って逃げたわけだよ。様々な凶悪犯も殺人犯も見慣れているが、幽霊の類というものにはお目にかかったことがないからね、太刀打ちできるわけが無い。
走って、走って、しばらく走り続けると真っ暗な道の向こうにようやく明かりが見えて、屋台があることが解った時は、心底ほっとしたよ。
勿論、屋台の中に逃げ込むように入り込んだ。丁度、屋台の主人―――屋台にしては珍しく女性だったのだがね―――が後ろで用意をしているところだった。
つい人に会えた喜びで私はどっと体から力が抜けてしまい、自分でも間抜けな声を出したものだ。主人、いや女将さんは笑いながら、
『どうされたんですか?夜道を襲われでもしましたかい?』
と、聞いてきたものだから、私は今の体験を震える声で語ったわけだ。女将さんは大層面白そうに、くすくすと笑いながら相槌を打ってくれてね。
だがしかし、私はその女将さんの声にとても聞き覚えがあるような気がして、ふと疑問に思ったわけだ。そのとき、丁度女将さんが振り向いて、私は、あっと大きな声を上げて椅子の後ろに転げ落ちてしまった。
何せ、女将さんにも顔が無かったのだから!!
固まる私に近づいて、女将さんは一言、
『おまわりさん、酷い。私を置いていってしまうんですもの』
と、私の頬をするりとなで上げながら言うと、霧のように屋台ごと消えてしまったのだ。
私は、しばらくその場から動けなかったが、恐怖が一気に押し寄せてきて、嗚呼、一秒たりともこの場所には居られないと、走りながら家に逃げ帰ったわけだよ。
崎坂は開いた口がふさがらずに、長い話を終えた山下の顔を見た。
山下の表情はさっきより暗く、今にも死にそうな程青い。
到底信じられる話ではないが、あまりの山下の酷い表情と、心底怯えたような声音に崎坂は嘘をついているとも思えず、だが、しかし受け入れられる話ではない。
長い長い沈黙の末、ようやく吐き出した言葉は、
「・・・・・・そりゃあ、大変でしたね、徳さん」
だった。(動揺しすぎて、仕事中は控えている呼び方でつい山下を呼んでしまった。)
山下は虚ろな声で、嗚呼、大変なんてもんじゃない、まさに恐怖さ、とぶつぶつ呪文のように呟きながらふらふらと自分の席に戻っていく。
崎坂は、そのぐったりとした細い背中を同情交じりの視線で見送ると、時計を見て、ああもうそろそろ聞き込みに行くか、と腰を上げたのだった。
只、しばらく夜に出歩くのは控えようと思いながら。
山下がうっかりのっぺら坊にでくわすお話。
山下の口調の語尾が単調にすぐなってしまうので、書き辛くて書き辛くて。笑
崎さんは山下の話を信じたわけではないですけれども、何となく背筋が寒くなったのでやめとくかーみたいな。
迷信は信じないけれども、警戒心はある崎さん。なんちゃって。